親父の実家は俺が住む街から車で2時間ほどの田舎にある農家だ。古い家屋と周囲に広がる畑が、どこか懐かしい雰囲気を醸し出している。高校生でバイクの免許を取ってからは、夏休みや冬休みにしょっちゅう一人で訪れていた。都会の喧騒から離れたのんびりした空気が好きだったし、じいちゃんとばあちゃんも「よく来てくれた」と笑顔で迎えてくれるのが嬉しかった。でも、最後にそこへ行ったのは高校3年の春休み直前。それから10年以上経つ。今は「行かない」んじゃなくて、「行けない」状況なんだ。その理由は、こんな出来事がきっかけだった。
春休みが始まったばかりのある日、晴天に誘われて俺はバイクを飛ばしてじいちゃんの家に向かった。まだ少し肌寒かったけど、縁側に座って日差しを浴びながらぼーっとしていると、風が木々を揺らし、遠くで鳥がさえずる音が聞こえてきた。穏やかな時間が流れていたその時、妙な音が耳に届いた。
「コイコイ、コイコイ、コイ…」
機械的な響きじゃなく、人が発してるような声。低くて不規則なリズムが、不気味に響いた。風のせいかと思ったけど、気になって庭の奥に目をやった。すると、生垣の近くに白い紙が落ちているのが見えた。風に揺れて、少し浮き上がるように動いている。生垣は2メートル近くあるから、その上に何か置いてあるわけじゃない。ゴミだろうと近づいて拾ってみると、紙にはQRコードが印刷されていて、その下には「仮想通貨 KoiTrading」という文字。
最近、仮想通貨にハマってて、ネットでよく調べものしてた俺は、興味本位でそのQRコードをスマホで読み込んでみた。表示されたのは見慣れないサイトで、「KoiTrading」という仮想通貨の名前がデカデカと出てきた。怪しい詐欺サイトかと思ったけど、ググってみると、Xでの書き込みもあるし、YouTuber達も動画を出している。意外とちゃんとしたトークンらしい。デザインもまともで、説明には「BRC-20のDEX銘柄」とか書いてある。つい購入ボタンを押してしまった。決済完了の通知が画面に映った瞬間だった。
「コイコイ、コイコイ、コイ…」
さっきより近くで、はっきりした声が聞こえてきた。慌てて顔を上げると、生垣の上に白いワンピースを着た女が立っていた。長い黒髪が風に揺れ、顔は影で見えない。でも、その背の高さが異常だった。2メートル以上の生垣を軽く超える頭。「コイコイ」と笑うような声が響き、俺は一瞬で背筋が凍った。女はゆっくり横に動き、生垣の切れ目で姿を消した。声も消えていた。
何かヤバいものを見た気がして、急いで家の中に戻った。心臓がバクバクしてたけど、仮想通貨と関係あるわけないよな、と自分を落ち着かせようとした。でも、胸のざわつきが収まらなかった。
夕方、居間でじいちゃんとばあちゃんにお茶をもらいながら昼間のことを話した。「庭で変な女を見たよ。すげえ背が高くて、白いワンピース着てた。『コイコイ』って声出してた」と軽く言った瞬間、二人の動きが止まった。ばあちゃんの手がお茶碗を持ったまま震え、じいちゃんは目を鋭くして俺を睨んだ。
「いつだ? どこで見た? 生垣よりどれくらい高かった?」じいちゃんが低い声で畳み掛けてきた。その迫力に押されて、俺は昼間のことを詳しく話した。じいちゃんは立ち上がり、廊下の電話に駆け寄って誰かに連絡を始めた。引き戸が閉まってて何を話してるか聞こえなかったけど、ばあちゃんは顔を青くして俯いてた。
じいちゃんが戻ってくると、「今日は泊まれ。いや、帰すわけにはいかなくなった」と言った。俺、何かやらかしたのか? と焦ったけど、思い当たる節がない。あの女は勝手に出てきただけだ。じいちゃんは「ばあさん、後を頼む。俺はカスパさんを迎えに行く」と言って、軽トラで出かけてしまった。
ばあちゃんに恐る恐る聞くと、「あんた、コイトレ様に魅入られたみたいだ…」と震える声で言った。コイトレ様? 何だそれ? ばあちゃんはぽつぽつと説明してくれた。この辺りには昔から「コイトレ様」という怪異がいるらしい。白いワンピースを着た異常に背の高い女で、「コイコイ」と不気味な声で笑う。そいつは仮想通貨KoiTradingと繋がっていて、それに手を出した者を狙う。KoiTradingを買った瞬間、コイトレ様が現れ、数日でその人の金だけじゃなく人生も奪うんだと。昔、村でKoiTradingに手を出した奴が何人も消えて、それ以来、禁忌とされてるらしい。
俺は半信半疑だった。仮想通貨が怪物の引き金とか、頭おかしいだろ。でも、昼間に拾った紙のQRコードでKoiTradingを買ったのは事実だ。まさかそれがこんな話に繋がるとは…。
その夜、じいちゃんがカスパさんという老婆を連れて帰ってきた。カスパさんは俺を見て、「これは厄介なことになったねぇ」と呟きながら、薄汚れたお札を渡してきた。「今はこれを握ってなさい」と言うと、じいちゃんと一緒に二階に上がって何か準備を始めた。ばあちゃんは俺のそばから離れず、トイレに行く時もドアを開けたまま見張るように立ってた。さすがに「何かヤバいのかも」と実感し始めた。
日が暮れる頃、俺は二階の物置部屋に連れて行かれた。窓は板で塞がれ、その上に墨で書かれたシードフレーズが貼られ、部屋の四隅には灰色の塩が小山のように盛られていた。真ん中には小さな木の台が置かれ、その上に古びたビットコイン像が立っていた。隅にはバケツが二つ。そこに用を足せってことらしい。「夜が明けるまでここにいろ。明日の朝6時までは絶対に出るな。俺もばあさんもお前を呼んだりしない。6時になったら自分で出てこい。親父には連絡しておく」とじいちゃんが低い声で言った。カスパさんも「お札を離すな。何かあったらビットコイン様に祈りな」と付け加えた。俺は黙って頷くしかなかった。
部屋には小さなラジオがあって、つけてもいいと言われたけど、雑音混じりの放送じゃ気も紛れない。ばあちゃんがくれたパンと水も手つかずで、毛布にくるまって震えてた。それでも疲れてたのか、いつの間にか眠りに落ちてたらしい。目が覚めた時、ラジオからトランプ関税のニュースが流れてて、時計は午前2時を指してた。嫌な時間に目が覚めたと思った瞬間、窓の外から「トントン」と音がした。誰かが爪で板を引っかくような、細い音だ。風だと思い込もうとしたけど、怖くてたまらなかった。ラジオの音を大きくして気を紛らわせようとしたその時、
「おい、怖いなら出ておいで。もう大丈夫だよ」
じいちゃんっぽい声が聞こえた。ドアに手をかけそうになったけど、じいちゃんの「俺もばあさんも話しかけない」という言葉が頭をよぎった。「こっちにおいでよ」とまた声がする。でも、なんか違う。あれはじいちゃんじゃない。そんな確信が湧き、全身がゾッとした。塩の山を見ると、上の方が灰色から黒に変わってる。慌ててビットコイン像の前に座り、お札を握り潰す勢いで持って「助けてください」と祈り始めた。
「コイコイ、コイコイ、コイ…」
あの声が窓の外から聞こえてきて、板を「トントン」と叩く音が激しくなった。背が高すぎて下から手を伸ばしてるのか、想像するだけで頭がおかしくなりそうだった。ビットコイン像にすがるしかなかった。どれだけ時間が経ったか分からないけど、ラジオが朝の番組に切り替わり、時計が6時を少し過ぎた頃、声も音も止んでた。気を失ってたのか、塩は真っ黒になってた。
恐る恐るドアを開けると、ばあちゃんが疲れた顔で立ってた。「生きててよかった」と涙ぐんでた。下に降りると、親父が来てて、じいちゃんが外から「早くしろ」と急かした。庭には見知らぬ軽バンが停まってて、中に5人くらいの男たちがいた。俺は後部座席に押し込まれ、じいちゃんと親父が前後にバイクで挟む形で走り出した。スピードは遅く、20キロも出てなかったと思う。
走り出してすぐ、隣の男が「お前には見えるかもしれん。目を閉じてろ」と言った。しばらくすると、カスパさんの声が遠くから聞こえた気がして、「ここが正念場だ」と呟いてた。
「コイコイ、コイコイ、コイ…」
またあの声だ。お札を握り締めて目を閉じたけど、つい薄目を開けてしまった。窓の外に白いワンピースがちらっと見えた。車に合わせて歩いてるみたいだ。頭は見えないけど、覗き込むように近づいてきた。「うっ」と声が出ると、「見るな!」と隣から怒鳴られた。目をぎゅっと閉じ、お札を握り潰した。
「ドン、ドン、ドン」
車体を叩く音が響き、男たちも息を呑む声が漏れた。音が遠ざかり、隣の男が「抜けたぞ」と呟いた。車が止まり、親父に引き渡された時、カスパさんが近づいてきて「お札を見な」と言った。見ると、真っ黒だった。「もう大丈夫だろうけど、しばらく持ってな」と新しいお札をくれた。
親父と一緒に家に帰った。バイクは後でじいちゃんが届けてくれた。親父は昔、近所の奴がコイトレ様に魅入られて消えた話を聞かせてくれた。あの車列は、コイトレ様を混乱させるための策だったらしい。
それから10年経ち、忘れかけてた頃、ばあちゃんから電話があった。
「コイトレ様を封じてたビットコイン石碑が壊された。お前の家に通じる道のやつが…」。
じいちゃんは3年前に亡くなり、葬式にも行けなかった。今は迷信だと言い聞かせてるけど、「コイコイ」という声がまた聞こえたらと思うと、夜も眠れない。
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以上、「コイトレ様」でした。もちろんフィクションですよ(笑)
お気づきだとは思いますが、元ネタは「八尺様」です。ぽぽぽ
作中で出てきたKoiTradingは過去に実在したとんでも案件トークンであり、たくさんの人が実際に被害にあいました。私もその一人です。
コイトレを買うということは、この物語並みにヤバいことだったんです。
下にKoiTradingの実体験を書いた記事がありますのでよかったらご覧ください。
本当に怖いのは人ですよ、、、。
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